#3「魚服記」

 

「白竜魚服」と四字熟語があるらしい。どれくらいの人が知っているのだろうか。白竜が魚に化けて泳いでいたところを漁師に射られたという中国の故事に由来するらしく、簡単に言えば、偉い人が身分を偽ったがために災難に遭うことらしい。

日本に置き換えるなら「黄門前半」に近いと思う。これなら知っているでしょう。

TBSドラマ「水戸黄門」の主人公 水戸黄門はいつもただの旅の隠居老人に身分を偽っているが故に、町娘に巻き込まれて、その土地土地のお代官様に痛い目に遭わされると言うのがお決まりの前半だ。そう言うことに由来する四字熟語だ。

 

ご存知の通り、日本語に「黄門前半」なんて四字熟語は存在しない。ただ、思ってみたので言ってみたまでです。真っ赤な嘘です。大嘘です。

どうして、こんな意味のない嘘をついたのだろうか。

 

閑話休題

いや、そもそも本題にすら入ってないのに戻りようがない。こんな前書きが長いのは太宰さんが「魚服」なんて単語が使うのがよくない。

 

今回の作品「魚服記」は全部で四章からなる。

本州北端の小高い山、馬禿山の滝の下で茶店の店番をするスワという娘と、炭焼きで生計を立てる父親の2人の生活が、文明から離れた貧しい様子を滲ませながら書かれている。

ある雪の降る晩、酒に酔った父に犯された(ハッキリとは書かれていないが一番しっくりくる解釈)娘 スワが滝に飛び込むと、幼い頃に聞かされた昔話のように大蛇になったように滝壺を泳いでいた。しかし、スワが変身したと思ったのは大蛇ではなく、小さな鮒だったのだ。

 

作品の本筋は実に寓話的だ。それに、スワ、父親の無機質なのに潤沢な感情が滲み出る挿話が、所々、散りばめられる。

特に、二章は炭を焼くだけに生きる父親が生きる意味を見出せないでいることに、

「くたばった方あ、いいんだに。」

と侮辱し、はたかれそうになった日のことで締められている。

この時の

「そだべな、そだべな。」

と一人前の女に育った娘にかかりくさのない返事しか出来ない父と

「阿呆、阿呆。」

と叫ぶスワとの2人の父娘の姿は2人だけの生活からはみでて、耐えきれない感情が沁みている。

この二人の後ろ姿がこの作品で私は一番好きだ。

 

私はなぜ太宰が、父親にスワを襲わせたのか、が何度読み返しても分からなかった。

まず、この作品内で全く母親の影を感じさせない。亡くなったのか、別れたのか。その時、スワはいくつだったのか、つまり、スワの中に母親の記憶はどれほどあるのか。それが書かれていない。

父親は街へ出て、炭が売れると酒臭い息をさせて帰ってきた。しかし、その金の行く先はおそらく酒だけに消えたわけではあるまいと思う。

 

この作品の中で一番難しいのは、最後の場面だ。

スワが重たい疼痛を感じ、父親の酒臭い

あのくさい呼吸を聞いた。

ついで、スワは

「おど!」

とひくく言って飛び込んだ。

この描写は酒に酔った父親が性欲に任せて、スワを犯したと解釈するのが一番しっくりくる。

しかし、どうして、この作品にこの展開が必要だったのだろうか。この展開が滝壺に飛び込み、フナになるスワとどう繋がるのか。

 

その前の場面では、

そっと入口のむしろをあけて覗き見るものがある

という。それをスワは

山人が覗いているのだ、

と思っていたらしい。

 

だと、すると、実はスワを襲ったのはきこりなのではないか。しかし、いつもの

あのくさい息

のせいで、父親だと間違えてしまったのではないか。スワは父親に襲われたと、勘違いして、滝壺に落ちたのではないか。

こんな解釈も浮かんでくる。。

 

だとすると、この作品の終焉はきこりと父親を間違えたスワが、自分の変化を大蛇とフナで間違えたことになる。なんとも、救いようのない少女だ。

しかし、太宰はこういう救いようのない女性像になんらかの理想を重ねている節がある。たとえば、前回の『思い出』のなかで、太宰が想いを寄せたみよも、学がなく身分の低い女性だ。この作品のスワは、初期太宰に見られる理想の女性像の片鱗が垣間見れる気がする。

 

 

〈作品メモ〉

昭和八年三月一日発行の『海豹』創刊号に発表。のちに砂小屋書房刊『晩年』、あづみ文庫『玩具』、新潮文庫『晩年』に再録される。