#2「思い出」

 

3章に渡って太宰の幼少期から青春時代までの記憶が小説という体裁よりも随筆として綴られている。

 

第一章は青森の大家に生まれた幼少期の太宰の記憶を曾祖母、祖母、父母、兄三人、姉四人、弟一人、叔母、その三人の娘という大編成の家族構成を各人とのエピソードを交えながらなぞる。

物心つくまで、家族は叔母しか知らなかったという太宰。叔母と離れてからは女中の「たけ」に面倒を見てもらうことになる。その他の家族とのエピソードは次兄と親しかったことを除くと、不和を思わせるエピソードの方が多い。

特に、母親には「親しめなかった」と言っている。祖母に対しても「苦手であった」という。この苦手意識が、のちの「大庭葉蔵」を生むのだろう。一つ屋根の下での生活に、常に気を張らねばならない相手がいることが、太宰の中で他の人にない自意識と対人恐怖の葛藤を生んだようだ。

 

こんなことを言ってもしょうがないが、私も正直、家族と一般のそれ以上の深さの溝があることを感じている。

幼少期の、ちょうど太宰が女中のたけから離れた頃、両親の離婚と母親の再婚による見ず知らずの他人による私の生活への介入。とにかく、私はこの人間が嫌いであったし、生活的に自立していない私がこの人間の脛をかじるしかないことへの抵抗はかなり大きなものだった。その名残が今もある。

母親とその男が別れた今、その人間の連絡先も知らなければ、今後会うこともない。他人として十数年間、私の生活を侵し、消えた。あの頃の息苦しさはもう二度と味わいたくない。

 

太宰はあの息苦しさの中で、おどけることで酸素を見つけた。その反動が不眠症に出たらしく、小学二三年からの不眠症に悩んだことも記されている。

 

第二章は生家を離れて通い出した中学時代の記憶を学校生活を中心に語る。この頃から太宰の対人に関する淀みがうかがえる。

周りへの体裁に神経をすり減らすことに費やされた中学時代。周りの目が気になり、成績や評価に一喜一憂してことが書かれている。なんせ、学年で3位の成績を取ると海まで駆けていくくらいだった。海に駆けていくという青春のステレオタイプはここから始まる。かどうかは知らない。

それでも、人並みの初恋みたいなものが書かれている。しかし、それはさらっとしか書かれていないし、それも火事の晩の話が半分を占めているところを見ると、おそらく太宰にとって初恋はそんな大きな意味を持たなかったのかもしれない。大抵の人はそんなことはない。

 

第三章では女中「みよ」をめぐる弟の軋轢から青春時代特有の自我と向き合う闘記が綴れる。自分が何者かであるのか。はたまた何者でもないのないのではないか、そんな不安から脱出の手立てとして創作。太宰の作家としての原点をみる。

年頃の太宰青年が思いをかけた女性は女中のみよであった。弟も同じ思いで、みよを見ていた。漱石の「こころ」みたいなエピソードだ。

 

また、太宰の作家としての原点が書かれている。

自分が特別な何者かであることをおそらく多くの人がある程度の時期まで信じているのだと思う。なにか特別な才能を秘めているはずだし、周りからの羨望、賞賛に満ちた自分が未来のどこかにいるはずだという迷妄を抱く。いつしかそれは現実をみるという表現に言いくるめられて、消え失せる。それを大人になるという嫌な言い方をする。

私がこうやって乱文を挙げ連ねて、嘲笑の的に自ら進んでなることは迷妄の濃霧が晴れきっていないからだろう。大人になりきっていないということか。それはそれで構わない。

太宰は大人にならないで済む手立てに創作を見つけた。長兄には創作に逃げることを咎められるが、結果、特別な何者かになった。

 

〈作品メモ〉

昭和八年四月発行の『海豹』に一章、六月に二章、七月に三章が発表される。

その後、砂小屋書房刊「晩年」、新潮文庫「晩年」、改造社刊「ろまん燈籠」に再録される。

また、人文書院刊「思い出ー太宰治短編傑作選集」に前書きとして、「『思い出』は、昭和七年に書いた。二四歳である。自分を『いい子』にしないように気をつけて書いた。」とある。