#1 「葉」
フランスの詩人、ポール・ヴェルレーヌの詩を前書きに持ってきて、こんな書き出しで始まる。
死のうと思っていた。
私が思う太宰作品の中で、いや、もしかすると日本文学の中でもっとも痺れた書き出しだ。端的でいて、でも、作家の書こうとしていることが言葉以上のものを通して、真っ直ぐに迷いなく伝わるいい書き出しだ。
しかし、こんなにも私を痺れさせておきながら、着物をお年玉でもらった太宰は次の行では死ぬのをやめて、
夏まで生きようと思った。
というのだ。理由は、
これは夏に着る着物であろう。
というからである。
着物の生地で決めてしまう生き死にを決めてしまう太宰。こんなに簡単に生死を決めてしまう太宰は現代では空虚なメンヘラの代名詞のように思われるかもしれない。しかし、この先に続くたった1行、長くても3ページに満たない雑記には「死」とはかけ離れたユーモラスな太宰に、奥さんの顔色を伺う小心者な太宰などいろんな太宰がいる。太宰の生活から滲んだ言葉が紡がれていて、乱暴に、繊細に、太宰の思索の跡がみてとれる。
太宰の思索の短文はまさに葉のようにおおい茂り、数多の太宰作品の大樹を思わせる。その下に見えない根がしっかりと張っている。それは生死感だけでない。小説というもの本質について、自分の作品の原点について、裏切られることについて、母について、断片的な太宰の思考の跡がこのころからずっと深く張っているのだ。当然、私たちはその根深さをこれから読んでいく作品により知ることになるわけではあるが。しかし、この作品からだけでその根がいろんな方向に伸びていることはよくわかる。深く根を張るにはそれだけ方向はあっちこっちに向いていなければならない。
死のうと思い、綴り始めた太宰はさいごに
どうにか、なる。
と、締めくくる。
もちろん、私たちはこの先で太宰が「どうにかなった」のかよく知っているわけだか、それを知らない当人の太宰はこの先のことをどう考えていたのだろうか。
全集を順を追って読むということの一つの醍醐味には、そんなことを思いながら読むこともあろう。
〈作品メモ〉
昭和九年四月十一日発行の「鷭」に初収録
その後、砂子屋書房刊「晩年」やポリゴン書房刊の改訂版「晩年」「姥捨」新潮社刊の新潮文庫「晩年」に収録される