#「猿ヶ島」

 

太宰さんの作品の軸に「絶望すべき時にする絶望とそれに対峙する情熱」があることは、前回のシドッチの無念を元に確認したと思います。

ずっと後に代表作となる「人間失格」だって、人間として生まれてしまった「絶望」そして、そこから抗う「情熱」の物語です。

 

今回の「猿ヶ島」も絶望、そして、それと真っ向から向き合う闘争劇です。太宰治の絶望的鳥獣戯画とも言う作品です。

 

あらすじ

海を越えて、ロンドンの動物園に連れてこられた一匹のニホンザル、私。状況を把握しようと周りを探索していると、もう一匹のニホンザル、彼に出会います。彼の話を聞いていると、私たちを取り囲む人間の群れがぞろぞろと。彼に聞くと、ニホンザルを飽きさせないための見世物なんだとか。しかし、子供の訝しんだ顔が気になり、何を言っているのか聞いてみると、その発言内容から、驚くことに見世物は私たちの方だと言うことがわかります。

居ても立っても居られない私は動物園からの脱走を試みます。彼はここでの生活の不自由を理由に引き止めますが、私は見世物とされた絶望と闘うために、脱走をします。

一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館附属動物園の事務所に、日本猿の遁走が報ぜられた。行方が知れぬのである。しかも、一匹ではなかった。二匹である。

と、結ばれる。彼らは新たな絶望と対峙し、新たな闘いを始めたのだろう。

 

ぶち殺す、翻って絶望

ニホンザルにとって見世物となることが、いかに絶望的であったか。淡々と低い温度で書かれる文体の所々に、突然として現れる灼熱の言い回しが物語っている。

ぶち殺そうと思った。

これは元々いたニホンザル(彼)から、見世物は自分たちと打ち明けられた時の私の心情を綴ったものだ。

「そうか。すると、君は嘘をついていたのだね。」

と、口では落ち着いているが、なんせこの時の心の中は「ぶち殺す」なのだ。この裏返しが、絶望だとすれば、その絶望の大きいことよ。

その直後には、

彼の腕からのがれ、枯木のもとへ飛んで行った。

という。殺意の湧いた相手のそばに居たくないというのは、ごくごく当然のことだろう。

 

しかし、この「ぶち殺す」は騙していた彼に対するものだけだろうか。

その次にこんな一文がある。

彼のいやらしい親切に対する憤怒よりも、おのれの無智に対する羞恥の念がたまらなかった。

つまり、「ぶち殺す」と言う殺意は、本来は私に向けられているのだ。私は、山で捕らわれ、ロンドンに来るまでのことを「むざんな経歴」といって「下唇を噛みしめた」ほど、トラウマ的に人間に怯えている。その人間に見世物として、辱めを受けているのに、それに気付かずにいたことが、そんな私に対して、一番に湧いた殺意なのだろう。

 

境遇の共感

あらすじにもあるように、最後の遁走は、

しかも、一匹ではなかった。二匹である。

のだ。元々いた猿も、私に感化されて、遁走したのだ。

こわくないのか。

と、私を引き止め、

ここはいいところだよ。日が当たるし、木があるし、水の音が聞こえるし、それにだいいち、めしの心配がいらないのだよ。

と、動物園に留まるように引き止めていた。

 

ここに、生活のために己が信条を放棄するのか、というせめぎ合いがあるのだ。

この問題は後々まで太宰さんにつきまとう。生活の安泰が何よりという社会においては、太宰さんのように書きたいもののために生活が犠牲になることがいかに苦しく、そして、そのことを社会から嘲笑されて、どれだけ悔しかったことか。

私は、彼に

ひくい笑い声

を聞いたのだ。

社会の中で安泰を保障されたものは、自分を精神的に殺さないために、その安泰をかなぐり捨てるものを嘲笑うのだ。どちらが勇気が必要で、強くあるかということを忘れて。

彼も、動物園での生活を捨てるという私を、社会に暗喩された動物園の内から笑ったのだろう。

 

しかし、そんな彼は私に感化されて、動物園から遁走する。彼もまた、社会の嘲笑の的へと、自ら成り下がるのだ。

そこには私に対する共感があった。自分と同じように、日本から捕らえられて、ロンドンに連れてこられて、惨めな見世物にされた、自分と同じ悲しい境遇に対する共感が彼を遁走に突き動かしたのだ。

そして、そのことを知るは私と彼だけ。共感に加えて、「私たちだけが知っている」という閉鎖性がより、私と彼を密にする。その結果、彼も私とともに動物園から脱走する。

 

この物語は、「私」が生活を捨てた物語を書いているようで、その実、「彼」にも生活を捨てさせたという社会と対峙する情熱を書いた物語なのだと思う。

 

虚構の遁走劇

この物語は、太宰版鳥獣戯画としては非常に毒が効きすぎている。なんせ、社会を捨てる情熱を肯定する物語を社会に突きつけているのだ。

ただ、そこは、ちょっぴり小心者の太宰さん。

 

これだけ情熱的な物語でありながら、最後にこの物語の虚実性を強く印象付けている。

 

まず、本文最後にある「ロンドン博物館附属動物園」というものは存在しない。

それどころか、当時の新聞を当たってみると、本文にある「一八九六年」に国内外問わず、「動物が遁走した」という記事は見当たらなかった。もしかすると、動物の遁走というのは新聞で記事にもならないような、身近なところからの着想だったのかもしれない。

 

動物園の名前に具体性を帯ながらも、虚実として、あくまでフィクションとして書き上げるところに、太宰さんが作品をあくまで、猿の戯言として書き上げているのが可笑しい。

もしこれが、当時の人が共有しているなんらかの事件のオマージュであれば、猿たちの戯言の意味合いが変わってくる。

 

自分が社会に対して依存し、執着し、媚び売るような文章を書いてしまっていることに対する戒めというか、鼓舞というか。

どちらにしろ、自分が胸の内に強く思うことを猿に代弁させることが、太宰さんの自己肯定感の低さを強調している。

 

〈作品メモ〉

 

#5「地球図」

 

「努力は報われる」とか、根も葉もないことでもって本質から目をそらして美談を仕立てあげる話が私は嫌いだ。人間、どうにもならないことはどうにもならないし、生きていれば理不尽に打ちのめされ、絶望する。絶望すべき時に絶望しない人間を私は信用しない。

それでいうと太宰さんほど信用できる人間はいない。なんせ絶望しなくてもいい時でさえも絶望する。絶望すればいいってもんでもないんだけどね。

 

さて、今回の作品は徳川6代家宣と7代家継の侍講(今で言う家庭教師)として政を治め、正徳の治で有名な新井白石が、イタリア人宣教師シドッチに面会し、『采覧異言』に当時の西洋のことを書き記すまでをシドッチの生い立ちから辿った物語。

太宰さんは時々、史実に基づいた物語を語り直す。昔話のオマージュなんかも書いたりするのだ。

 

作品に出てくる「ヨワン・バッティスタ・シロオテ」とは高校の日本史で習うイタリア人宣教師シドッチのことだ。

f:id:sascoca:20191217160134j:image(2016年に遺骨から復元されたシドッチの顔)

彼が日本にもたらした影響は大きい。鎖国状態にあった日本には入り得なかった西洋の知識を携行し、その後の日本の蘭学は彼が蒔いた種にが実ったものと言っていいだろう。その影響下にある有名どころで言えば、杉田玄が「ターヘルアナトミア」を翻訳した「解体新書」は多くの人が小学校で習って、記憶しているだろう。

f:id:sascoca:20191217155542j:imagef:id:sascoca:20191217155621j:image

 

さて、そんな日本史に名を残す偉業に種を蒔いた当のシドッチはそれほど有名ではない。

その不遇さはまさに絶望に匹敵するもので、その絶望は作家の創造欲を掻き立てるらしく、太宰さんと同時代の無頼派作家坂口安吾さんも『イノチガケ ——ヨワン・シローテの殉教——』という作品を残している。(こちらは1940年の文学会に掲載なので、太宰さんよりも数年はやい)

他には、大正時代に民本主義を唱えて、『憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論んず』で有名な吉野作造さんも『新井白石とヨワン・シローテ』という執筆があるくらいだ。

 

さて、太宰さんが書き出すシドッチの絶望を見てみよう。

太宰さん曰く、シドッチの絶望は日本を発つ前、ローマ時代から始まっているらしい。

ローマで日本風俗と日本語を勉強して日本の地、屋久島に上陸したシドッチは、日本の土を踏むや否や捕らえられる。

ロオマンで三年のとしつき日本の風俗と言葉とを勉強したことが、なんのたしにもならなかったのである。

苦労した来日は、布教という使命に着手する間も無く、水の泡に。

 

しかも、ローマでの勉強は無駄になるばかりか、その勉強が仇になったらしい。屋久島から長崎に連行され、長崎の阿蘭陀人による尋問の際のことだ。

だいいち阿蘭陀人には、ロオマンの言葉がわからぬうえに、まして、その言うところの半ば日本語もまじっているのだから、猶々(なおなお)、聞きわけることがむずかしかったのであろう。

という。下手に日本語を学んでしまったが為に、余計に意思の疎通が取れなくなってしまったのだ。生兵法は大怪我の元。まさにこのこと。

 

さて、こんな具合だから、長崎でもシドッチさんを持て余す。こうなると、時代は徳川の御代、決まって江戸に送還される。その江戸で、尋問に当たったのが新井白石だった。

しかし、その白石だって興味があったのは西洋の時事であって、シドッチが説きたいキリスト教ではない。

白石は、ときどき傍見(わきみ)をしていた。はじめから興味がなかったのである。すべて仏教の焼き直しであると独断してた。

というのだから、シドッチの苦労はいよいよ報われない。しかし、それを熱くなることもなく、淡々と事実を書いているだけなのが太宰治らしいと思う。そのことについて太宰さんがどう思ったかなんてことは書かれない。ただ、絶望するシドッチ、その姿だけがシドッチの視点でなく、白石や日本人の視点から書かれている。シドッチの視点で語られることはなく、日本人の視点のみで語られるのだ。言葉の通じない国で思い通りにならないシドッチは何を思っていたのだろうか。いよいよ、自分が信じ、広めようと我が身を捧げた神を恨んだやもしれない。

 

さて、その後シドッチは投獄されて、小石川の切支丹屋敷にて最期を迎える。

苦労の末に来日したも、志した布教に取り掛かることさえ叶わず、どんな獄中生活を送ったのか。太宰さんはたった5行だけ、最後に書き記している。

やがてシロオテは屋敷の奴婢、長助はる夫妻に法を授けたというわけで、たいへんいじめられた。

なんとシドッチはこの絶望の中でも、自分の志すところを離さなかったのだ。

長助はる夫妻への布教の咎で折檻されようとも

長助はるの名を呼び、その信を固くして死ぬるとも志を変えるでない、と大きな声で叫んでいた。

というのだ。

この絶望の中でも、その信仰を捨てることなく、強く神を信じ、できる限り精一杯の使命を全うしていた。投獄されても、最期まで闘ったのだ。

 

太宰さんはきっと最期、この5行が描きたかったに違いない。計り知れない絶望でも屈せずに抗うことをやめないシドッチの姿。

太宰さんは生涯を通して、ただ絶望したのではない。絶望の中で闘っていたのだ。それはちょっとやそっとの熱量ではない。その一部が垣間見れる短編だった。

 

〈作品メモ〉

昭和十年十二月一日発行の『新潮』にて発表。砂小屋書房『晩年』に収録。新潮文庫『晩年』に再録される。

#4「列車」

 

劣等感というやつは実にめんどくさいのに、いつも足元にまどろっこしくついて回る。昇華させるのも一苦労だ。うーん、苦労はしてないか。振り回されて、クタクタになってバカを見る。それでも周りを見渡せば、自分を卑下して次の劣等感とご対面。出会いと別れは繰り返す。

 

今回の作品「列車」の中にそんな劣等感と太宰さんの付き合い方をみた。やっぱり太宰治をもってしても劣等感は付き合いづらい。もっとも、「もってして」なんて言い方をするとあたかも太宰さんが人付き合いが上手なようだが、そんなこともない。

 

同郷の友人が東京で捨てた女の帰省を上野まで見送った日のことを回想した短編が今回の作品になる。

東京まで追っかけて来た身分違いの恋人が疎ましくなってしまった友人の汐田さん。

一少女の出奔を知己の間に言いふらすことが、彼の自尊心をどんなに満足させたか

そう、田舎から追いかけて来た恋人をステータスにしてしまう今でも見るようなイタイというか、側から見ると惨めな男だ。

青森の頃は好きだった女性があったとしても、東京に来れば、他に目移りしてしまう。そこへ来て、田舎の身分違いの昔の女が来たところで初めのうちは自分を追っかけて来たなんて自慢話にもなろうが、次第に飽きてしまう。そうなると、いつまでも隣に居られても迷惑なので、青森に送り返したくなってしまう。ひどい話ではあるが、今も聞く話だ。

そこへ彼女の乗る汽車の時刻が太宰さんの元へ届いたものだから、いたたまれなくなって上野駅まで妻を引き連れ雨の中、トボトボ行くのである。太宰さんはそんな自分を客観的に

軽はずみなことをしがちな悲しい習性があった

というのだ。

道すがら、友人の心変わりを申し訳なく思っただろうか。

太宰さんって親切な人だ。悲しい女性の背中を送ってやろうという正義感。

 

と思うんだが、よく読んでみるとそうでもない。

捨てられた女性への親切ではなく、友人汐田に対する感情を埋める手立てに利用した偽善らしい。

偽善で埋めたその感情というのが、

 

劣等感だ。

 

太宰さんは汐田さんのどこに劣等感を抱いたのか。いくつか引用してみたい。

まず、一緒に連れだった妻についてこんな風に述べている。

妻はテツさん(汐田さんに捨てれた女性)の傍にいながら、むくれたような顔をして先刻から黙って立ち尽くしているのである。

妻を連れて来たのは妻も亦テツさんと同じように貧しい育ちの女だったから

たどたどしい智識でもって、FOR–A–O–MO–RIとひくく読んでいた

とある。

太宰さんは、引き合わせれば会話が弾むだろうと考えるほどに、テツさんと奥さんとを田舎育ちの無教養と、似た境遇の女性だと思っていたようなのだ。それがどうだろう、ふたりとも会話をせずに黙りこくっている。そんなふたりの様子は

貴婦人のようなお辞儀を無言で取り交わしただけ

だったのだ。少しでも励みなるだろうと連れて行った妻はまんまと期待外れだったのだ。

 

妻とテツさん。貧しい田舎生まれで無知な乏しい女性を愛した太宰さんと汐田さん。だが、一方汐田さんは都会の女の為にテツさんを田舎に送り返し、他方太宰さんの元には奥さんが残る。一緒にいる女性の良し悪しがその男性の良し悪しだなんてことは決してないが、世間的に見れば、汐田さんの方が恵まれているように見えるのだろう。

そんな汐田さんに対する嫉妬のようなものが見え隠れしている。

 

さらに、汐田さんについてはこんな風に言及している。テツさんのことを相談に来た汐田さんとの会話を引用してみよう。

ひまな遊戯には同情が持てなかったので、君も利巧になったね、君がテツさんに昔程の愛を感じられなかったなら、別れるほかあるまい、と汐田の思うつぼを直截に言ってやった。

「思うつぼ」とは汐田さんは太宰さんにテツさんと別れるように言って欲しかった、ということだ。そして、太宰さんはそれを言って「やった」のだ。

この言い方の毒に、静かな、しかし、かなり熱のこもった感情が読み取れる。

 

自分が結婚して一緒にいるような女性をいとも容易く捨てる汐田さん。それも、自分の意思でなく、あたかも太宰さんに提言されたかのような他力本願さ。結構ずるい。

そんな汐田さんに対する熱量をもった劣等感。

お付き合いを願い下げたいこの感情を太宰さんは、上野駅まで見送るという正義感に変えて消化した。とは言っても、根っからの正義感なら褒められようが、根底は劣等感だよ。劣等感から生まれたなら偽善だ。

 

太宰治流、劣等感の消化の仕方。それは偽善に変換

消化が関の山で昇華までは行くまい。

 

〈作品メモ〉

昭和八年二月十九日発行の『東奥日報』にて発表。「乙種懸賞創作入選」作として発表される。太宰治の筆名を用いて発表した最初の小説である。砂子屋書房刊『晩年』、ポリゴン書房刊『姥捨』、新潮文庫『晩年』に収録される。

#3「魚服記」

 

「白竜魚服」と四字熟語があるらしい。どれくらいの人が知っているのだろうか。白竜が魚に化けて泳いでいたところを漁師に射られたという中国の故事に由来するらしく、簡単に言えば、偉い人が身分を偽ったがために災難に遭うことらしい。

日本に置き換えるなら「黄門前半」に近いと思う。これなら知っているでしょう。

TBSドラマ「水戸黄門」の主人公 水戸黄門はいつもただの旅の隠居老人に身分を偽っているが故に、町娘に巻き込まれて、その土地土地のお代官様に痛い目に遭わされると言うのがお決まりの前半だ。そう言うことに由来する四字熟語だ。

 

ご存知の通り、日本語に「黄門前半」なんて四字熟語は存在しない。ただ、思ってみたので言ってみたまでです。真っ赤な嘘です。大嘘です。

どうして、こんな意味のない嘘をついたのだろうか。

 

閑話休題

いや、そもそも本題にすら入ってないのに戻りようがない。こんな前書きが長いのは太宰さんが「魚服」なんて単語が使うのがよくない。

 

今回の作品「魚服記」は全部で四章からなる。

本州北端の小高い山、馬禿山の滝の下で茶店の店番をするスワという娘と、炭焼きで生計を立てる父親の2人の生活が、文明から離れた貧しい様子を滲ませながら書かれている。

ある雪の降る晩、酒に酔った父に犯された(ハッキリとは書かれていないが一番しっくりくる解釈)娘 スワが滝に飛び込むと、幼い頃に聞かされた昔話のように大蛇になったように滝壺を泳いでいた。しかし、スワが変身したと思ったのは大蛇ではなく、小さな鮒だったのだ。

 

作品の本筋は実に寓話的だ。それに、スワ、父親の無機質なのに潤沢な感情が滲み出る挿話が、所々、散りばめられる。

特に、二章は炭を焼くだけに生きる父親が生きる意味を見出せないでいることに、

「くたばった方あ、いいんだに。」

と侮辱し、はたかれそうになった日のことで締められている。

この時の

「そだべな、そだべな。」

と一人前の女に育った娘にかかりくさのない返事しか出来ない父と

「阿呆、阿呆。」

と叫ぶスワとの2人の父娘の姿は2人だけの生活からはみでて、耐えきれない感情が沁みている。

この二人の後ろ姿がこの作品で私は一番好きだ。

 

私はなぜ太宰が、父親にスワを襲わせたのか、が何度読み返しても分からなかった。

まず、この作品内で全く母親の影を感じさせない。亡くなったのか、別れたのか。その時、スワはいくつだったのか、つまり、スワの中に母親の記憶はどれほどあるのか。それが書かれていない。

父親は街へ出て、炭が売れると酒臭い息をさせて帰ってきた。しかし、その金の行く先はおそらく酒だけに消えたわけではあるまいと思う。

 

この作品の中で一番難しいのは、最後の場面だ。

スワが重たい疼痛を感じ、父親の酒臭い

あのくさい呼吸を聞いた。

ついで、スワは

「おど!」

とひくく言って飛び込んだ。

この描写は酒に酔った父親が性欲に任せて、スワを犯したと解釈するのが一番しっくりくる。

しかし、どうして、この作品にこの展開が必要だったのだろうか。この展開が滝壺に飛び込み、フナになるスワとどう繋がるのか。

 

その前の場面では、

そっと入口のむしろをあけて覗き見るものがある

という。それをスワは

山人が覗いているのだ、

と思っていたらしい。

 

だと、すると、実はスワを襲ったのはきこりなのではないか。しかし、いつもの

あのくさい息

のせいで、父親だと間違えてしまったのではないか。スワは父親に襲われたと、勘違いして、滝壺に落ちたのではないか。

こんな解釈も浮かんでくる。。

 

だとすると、この作品の終焉はきこりと父親を間違えたスワが、自分の変化を大蛇とフナで間違えたことになる。なんとも、救いようのない少女だ。

しかし、太宰はこういう救いようのない女性像になんらかの理想を重ねている節がある。たとえば、前回の『思い出』のなかで、太宰が想いを寄せたみよも、学がなく身分の低い女性だ。この作品のスワは、初期太宰に見られる理想の女性像の片鱗が垣間見れる気がする。

 

 

〈作品メモ〉

昭和八年三月一日発行の『海豹』創刊号に発表。のちに砂小屋書房刊『晩年』、あづみ文庫『玩具』、新潮文庫『晩年』に再録される。

#2「思い出」

 

3章に渡って太宰の幼少期から青春時代までの記憶が小説という体裁よりも随筆として綴られている。

 

第一章は青森の大家に生まれた幼少期の太宰の記憶を曾祖母、祖母、父母、兄三人、姉四人、弟一人、叔母、その三人の娘という大編成の家族構成を各人とのエピソードを交えながらなぞる。

物心つくまで、家族は叔母しか知らなかったという太宰。叔母と離れてからは女中の「たけ」に面倒を見てもらうことになる。その他の家族とのエピソードは次兄と親しかったことを除くと、不和を思わせるエピソードの方が多い。

特に、母親には「親しめなかった」と言っている。祖母に対しても「苦手であった」という。この苦手意識が、のちの「大庭葉蔵」を生むのだろう。一つ屋根の下での生活に、常に気を張らねばならない相手がいることが、太宰の中で他の人にない自意識と対人恐怖の葛藤を生んだようだ。

 

こんなことを言ってもしょうがないが、私も正直、家族と一般のそれ以上の深さの溝があることを感じている。

幼少期の、ちょうど太宰が女中のたけから離れた頃、両親の離婚と母親の再婚による見ず知らずの他人による私の生活への介入。とにかく、私はこの人間が嫌いであったし、生活的に自立していない私がこの人間の脛をかじるしかないことへの抵抗はかなり大きなものだった。その名残が今もある。

母親とその男が別れた今、その人間の連絡先も知らなければ、今後会うこともない。他人として十数年間、私の生活を侵し、消えた。あの頃の息苦しさはもう二度と味わいたくない。

 

太宰はあの息苦しさの中で、おどけることで酸素を見つけた。その反動が不眠症に出たらしく、小学二三年からの不眠症に悩んだことも記されている。

 

第二章は生家を離れて通い出した中学時代の記憶を学校生活を中心に語る。この頃から太宰の対人に関する淀みがうかがえる。

周りへの体裁に神経をすり減らすことに費やされた中学時代。周りの目が気になり、成績や評価に一喜一憂してことが書かれている。なんせ、学年で3位の成績を取ると海まで駆けていくくらいだった。海に駆けていくという青春のステレオタイプはここから始まる。かどうかは知らない。

それでも、人並みの初恋みたいなものが書かれている。しかし、それはさらっとしか書かれていないし、それも火事の晩の話が半分を占めているところを見ると、おそらく太宰にとって初恋はそんな大きな意味を持たなかったのかもしれない。大抵の人はそんなことはない。

 

第三章では女中「みよ」をめぐる弟の軋轢から青春時代特有の自我と向き合う闘記が綴れる。自分が何者かであるのか。はたまた何者でもないのないのではないか、そんな不安から脱出の手立てとして創作。太宰の作家としての原点をみる。

年頃の太宰青年が思いをかけた女性は女中のみよであった。弟も同じ思いで、みよを見ていた。漱石の「こころ」みたいなエピソードだ。

 

また、太宰の作家としての原点が書かれている。

自分が特別な何者かであることをおそらく多くの人がある程度の時期まで信じているのだと思う。なにか特別な才能を秘めているはずだし、周りからの羨望、賞賛に満ちた自分が未来のどこかにいるはずだという迷妄を抱く。いつしかそれは現実をみるという表現に言いくるめられて、消え失せる。それを大人になるという嫌な言い方をする。

私がこうやって乱文を挙げ連ねて、嘲笑の的に自ら進んでなることは迷妄の濃霧が晴れきっていないからだろう。大人になりきっていないということか。それはそれで構わない。

太宰は大人にならないで済む手立てに創作を見つけた。長兄には創作に逃げることを咎められるが、結果、特別な何者かになった。

 

〈作品メモ〉

昭和八年四月発行の『海豹』に一章、六月に二章、七月に三章が発表される。

その後、砂小屋書房刊「晩年」、新潮文庫「晩年」、改造社刊「ろまん燈籠」に再録される。

また、人文書院刊「思い出ー太宰治短編傑作選集」に前書きとして、「『思い出』は、昭和七年に書いた。二四歳である。自分を『いい子』にしないように気をつけて書いた。」とある。

 

#1 「葉」

 

フランスの詩人、ポール・ヴェルレーヌの詩を前書きに持ってきて、こんな書き出しで始まる。

 

死のうと思っていた。

 

私が思う太宰作品の中で、いや、もしかすると日本文学の中でもっとも痺れた書き出しだ。端的でいて、でも、作家の書こうとしていることが言葉以上のものを通して、真っ直ぐに迷いなく伝わるいい書き出しだ。

しかし、こんなにも私を痺れさせておきながら、着物をお年玉でもらった太宰は次の行では死ぬのをやめて、

 

夏まで生きようと思った。

 

というのだ。理由は、

 

これは夏に着る着物であろう。

 

というからである。

着物の生地で決めてしまう生き死にを決めてしまう太宰。こんなに簡単に生死を決めてしまう太宰は現代では空虚なメンヘラの代名詞のように思われるかもしれない。しかし、この先に続くたった1行、長くても3ページに満たない雑記には「死」とはかけ離れたユーモラスな太宰に、奥さんの顔色を伺う小心者な太宰などいろんな太宰がいる。太宰の生活から滲んだ言葉が紡がれていて、乱暴に、繊細に、太宰の思索の跡がみてとれる。

 

太宰の思索の短文はまさに葉のようにおおい茂り、数多の太宰作品の大樹を思わせる。その下に見えない根がしっかりと張っている。それは生死感だけでない。小説というもの本質について、自分の作品の原点について、裏切られることについて、母について、断片的な太宰の思考の跡がこのころからずっと深く張っているのだ。当然、私たちはその根深さをこれから読んでいく作品により知ることになるわけではあるが。しかし、この作品からだけでその根がいろんな方向に伸びていることはよくわかる。深く根を張るにはそれだけ方向はあっちこっちに向いていなければならない。

 

死のうと思い、綴り始めた太宰はさいごに

 

どうにか、なる。

 

と、締めくくる。

 

もちろん、私たちはこの先で太宰が「どうにかなった」のかよく知っているわけだか、それを知らない当人の太宰はこの先のことをどう考えていたのだろうか。

全集を順を追って読むということの一つの醍醐味には、そんなことを思いながら読むこともあろう。

 

〈作品メモ〉

昭和九年四月十一日発行の「鷭」に初収録

その後、砂子屋書房刊「晩年」やポリゴン書房刊の改訂版「晩年」「姥捨」新潮社刊の新潮文庫「晩年」に収録される

作品の引用はちくま文庫太宰治全集によります。

 

 

はじめに

 

どうもこんにちは。

 

暑さのせいか、何のせいか、どういう気の迷いか、25歳にもなって、今更になって太宰治を全集で読み通してみようと思い立ちました。

高校の頃から太宰さんが好きで、大学生になると、桜桃忌に墓参りに行くほどには好きです。

ずっとパラパラと読んでいたので、おそらく全作品を読んでいるのですが、改めていちから読み通してみよう。そして、それを全作品分レビューを書き残そうとなんて、太宰さんに不躾ですが、思い立ちました。

本だけ読んで、生きていけるわけもなく、仕事もあるので、ゆっくりと1~2週間に一作ペースくらいで読もうと。更新の基本は月曜日に。調子がいいと月に4作。悪くても2作は読む。幸いにも総数は273作品もある太宰さんだけど、その多くは短編だったりもするので、ありがたい。長編は章を分けたり、時間をかけたりします。4,5年で終わるかしら。

 

何もよりも、太宰さんの文章を丁寧に享受したいので、無理に速読する必要があるくらいなら、更新を遅らせますので、あらかじめご了承を。

乱暴な速読で消費してしまうなんてのは、偉大な文筆家に対する冒涜以外のなにものでもありませんから。

 

ちなみに今回の通読はちくま文庫さんの全集を使用することにします。

太宰治全集 全10巻セット (ちくま文庫)

太宰治全集 全10巻セット (ちくま文庫)

 

 

では、月曜日、処女短編集「晩年」より「葉」から読みはじめたいと思います。