#5「地球図」

 

「努力は報われる」とか、根も葉もないことでもって本質から目をそらして美談を仕立てあげる話が私は嫌いだ。人間、どうにもならないことはどうにもならないし、生きていれば理不尽に打ちのめされ、絶望する。絶望すべき時に絶望しない人間を私は信用しない。

それでいうと太宰さんほど信用できる人間はいない。なんせ絶望しなくてもいい時でさえも絶望する。絶望すればいいってもんでもないんだけどね。

 

さて、今回の作品は徳川6代家宣と7代家継の侍講(今で言う家庭教師)として政を治め、正徳の治で有名な新井白石が、イタリア人宣教師シドッチに面会し、『采覧異言』に当時の西洋のことを書き記すまでをシドッチの生い立ちから辿った物語。

太宰さんは時々、史実に基づいた物語を語り直す。昔話のオマージュなんかも書いたりするのだ。

 

作品に出てくる「ヨワン・バッティスタ・シロオテ」とは高校の日本史で習うイタリア人宣教師シドッチのことだ。

f:id:sascoca:20191217160134j:image(2016年に遺骨から復元されたシドッチの顔)

彼が日本にもたらした影響は大きい。鎖国状態にあった日本には入り得なかった西洋の知識を携行し、その後の日本の蘭学は彼が蒔いた種にが実ったものと言っていいだろう。その影響下にある有名どころで言えば、杉田玄が「ターヘルアナトミア」を翻訳した「解体新書」は多くの人が小学校で習って、記憶しているだろう。

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さて、そんな日本史に名を残す偉業に種を蒔いた当のシドッチはそれほど有名ではない。

その不遇さはまさに絶望に匹敵するもので、その絶望は作家の創造欲を掻き立てるらしく、太宰さんと同時代の無頼派作家坂口安吾さんも『イノチガケ ——ヨワン・シローテの殉教——』という作品を残している。(こちらは1940年の文学会に掲載なので、太宰さんよりも数年はやい)

他には、大正時代に民本主義を唱えて、『憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論んず』で有名な吉野作造さんも『新井白石とヨワン・シローテ』という執筆があるくらいだ。

 

さて、太宰さんが書き出すシドッチの絶望を見てみよう。

太宰さん曰く、シドッチの絶望は日本を発つ前、ローマ時代から始まっているらしい。

ローマで日本風俗と日本語を勉強して日本の地、屋久島に上陸したシドッチは、日本の土を踏むや否や捕らえられる。

ロオマンで三年のとしつき日本の風俗と言葉とを勉強したことが、なんのたしにもならなかったのである。

苦労した来日は、布教という使命に着手する間も無く、水の泡に。

 

しかも、ローマでの勉強は無駄になるばかりか、その勉強が仇になったらしい。屋久島から長崎に連行され、長崎の阿蘭陀人による尋問の際のことだ。

だいいち阿蘭陀人には、ロオマンの言葉がわからぬうえに、まして、その言うところの半ば日本語もまじっているのだから、猶々(なおなお)、聞きわけることがむずかしかったのであろう。

という。下手に日本語を学んでしまったが為に、余計に意思の疎通が取れなくなってしまったのだ。生兵法は大怪我の元。まさにこのこと。

 

さて、こんな具合だから、長崎でもシドッチさんを持て余す。こうなると、時代は徳川の御代、決まって江戸に送還される。その江戸で、尋問に当たったのが新井白石だった。

しかし、その白石だって興味があったのは西洋の時事であって、シドッチが説きたいキリスト教ではない。

白石は、ときどき傍見(わきみ)をしていた。はじめから興味がなかったのである。すべて仏教の焼き直しであると独断してた。

というのだから、シドッチの苦労はいよいよ報われない。しかし、それを熱くなることもなく、淡々と事実を書いているだけなのが太宰治らしいと思う。そのことについて太宰さんがどう思ったかなんてことは書かれない。ただ、絶望するシドッチ、その姿だけがシドッチの視点でなく、白石や日本人の視点から書かれている。シドッチの視点で語られることはなく、日本人の視点のみで語られるのだ。言葉の通じない国で思い通りにならないシドッチは何を思っていたのだろうか。いよいよ、自分が信じ、広めようと我が身を捧げた神を恨んだやもしれない。

 

さて、その後シドッチは投獄されて、小石川の切支丹屋敷にて最期を迎える。

苦労の末に来日したも、志した布教に取り掛かることさえ叶わず、どんな獄中生活を送ったのか。太宰さんはたった5行だけ、最後に書き記している。

やがてシロオテは屋敷の奴婢、長助はる夫妻に法を授けたというわけで、たいへんいじめられた。

なんとシドッチはこの絶望の中でも、自分の志すところを離さなかったのだ。

長助はる夫妻への布教の咎で折檻されようとも

長助はるの名を呼び、その信を固くして死ぬるとも志を変えるでない、と大きな声で叫んでいた。

というのだ。

この絶望の中でも、その信仰を捨てることなく、強く神を信じ、できる限り精一杯の使命を全うしていた。投獄されても、最期まで闘ったのだ。

 

太宰さんはきっと最期、この5行が描きたかったに違いない。計り知れない絶望でも屈せずに抗うことをやめないシドッチの姿。

太宰さんは生涯を通して、ただ絶望したのではない。絶望の中で闘っていたのだ。それはちょっとやそっとの熱量ではない。その一部が垣間見れる短編だった。

 

〈作品メモ〉

昭和十年十二月一日発行の『新潮』にて発表。砂小屋書房『晩年』に収録。新潮文庫『晩年』に再録される。